ONE LOVE ボブ・マーリーの真実 Vol.1

2024年05月17日
Little Birdトゥルーワイヤレス発売と映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE 』公開を記念して『ONE LOVE ボブ・マーリーの真実』がスタート。写真と文 石田昌隆
5月17日から公開される映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』をひとあし早く試写で見た。これは、ボブ・マーリーの妻、リタ・マーリーや、長男のジギー・マーリーも制作に係わっていて、なるべく正確に再現した劇映画だ。主人公が話す英語がボブ・マーリーそっくりだし、当時のジャマイカやロンドンの雰囲気もしっかり表現されている。音楽は新たに録音しなおしていて、それがまた素晴らしい出来なのだ。
76年のジャマイカは、2大政党、マイケル・マンリーが率いるPNP(People’s National Party 人民国家党)と、エドワード・シアガが率いるJLP(Jamaica Labour Party ジャマイカ労働党)との抗争が激しくなって治安が悪化していた。そんなおり、因果関係は不明なままだが、ボブ・マーリーは、76年12月3日の夜、キングストンのホープ・ロードにあるタフ・ゴング・スタジオ(現ボブ・マーリー・ミュージアム)のキッチンで銃撃された。しかし翌々日、12月5日にナショナル・ヒーローズ・パークで行なわれたスマイル・ジャマイカ・コンサートに出演した。そのとき『Rastaman Vibration』(76年4月)の収録曲<War>を歌っているシーンがじつにカッコ良く描かれていた。
その翌日、ボブ・マーリーはジャマイカを出国して、主にロンドンで亡命生活を送り、名曲<Three Little Birds>や<One Love/People Get Ready>などを収録した『Exodus』(77年6月)をレコーディングした。このへんの話から、78年3月に帰国して、78年4月22日、キングストンのナショナル・スタジアムで開催されたワン・ラヴ・ピース・コンサートに出演して、当時ジャマイカの首相だったマイケル・マンリーと、政敵でその後ジャマイカの首相となるエドワード・シアガをステージ上で握手させたあたりまでのことを軸に描いた映画だが、途中でうまく<Simmer Down>(64年)でチャンスを掴んだときのことなども織り込んでいて、1本の映画の尺で判りやすく生涯を伝えていた。
ぼくは79年に行なわれたボブ・マーリー&ザ・ウィラーズの来日公演を見ている。ジャマイカには82年に初めて行って以来5回行った。ボブ・マーリーは81年5月11日に亡くなってしまい写真は撮影できなかったけど、周辺の人はたくさん撮影してきた。
1枚めの写真は、99年12月4日、ジャマイカ、オラカベッサベイ(Oracabessa Bay)で行なわれたコンサート「One Love The Bob Marley All-Star Tribute」で撮影したリタ・マーリーと、ボブ・マーリーの母、セデラ・ブッカー(Cedella Booker 1926-2008)だ。ボブ・マーリーは、1945年2月6日に、ジャマイカのセント・アン教区、ナイン・マイルズで生まれた。そのとき母、セデラ・ブッカーは18歳、父はイギリス海軍大尉、ノーヴァル・マーリー(Norval Marley 1885-1955)という61歳の白人だった。誕生後、両親はすぐに別れて、ボブ・マーリーはセデラ・ブッカーに育てられた。映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』に、子どもだったボブ・マーリーが、セデラ・ブッカーに連れられて、ジャマイカの首都キングストンのゲットー、トレンチタウン(Trenchtown)に出てきたシーンが描かれている。これは1957年のことだ。ボブ・マーリーの音楽は、トレンチタウンでの生活から生まれたレベル・ミュージック(抵抗の音楽)だった。
2枚めの写真は、82年に初めてジャマイカに行ったときに撮影したタフ・ゴング・スタジオ。ボブ・マーリーはここを拠点に活動していた。ザ・ウィラーズのバンマス、ベースのアストン・ファミリーマン・バレットはこの裏手の建物に住んでいた。ボブ・マーリーはすでに亡くなっていたが、タフ・ゴング・スタジオは忙しく稼働していた。ジャマイカはよく停電になったが、タフ・ゴング・スタジオには自家発電機があり、暗くなって停電したときも、ここだけ煌々と電気が点いていた。この写真に写っている車はベンツだが、ボブ・マーリーがおもに使っていたのは、映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』で描かれていたようにBMWだった。BMWは「Bob Marley & The Wailers」の頭文字でもある。このほかレンジローバーにも乗っていた。
Text & Photo by Masataka Ishida